ごめん。と、珍しくコムイさんが私に向かって沈痛なまなざしで頭を下げた。
私はそれに、小さく笑っていいえ。と返す。そしてそっと、目を伏せた。

覚悟はしていた。この世界に身をおいた以上、いつかはくるものだと。
だから、例えこれが精一杯の強がりだとしても、その場で取り乱すようなことはしたくはなかった。
今はただ、目の前の優しい司令官の姿が悲しい。
ホントの兄弟ではなかったけれど、妹のように可愛がってくれた人。
そして、誰よりも信頼できる人。

どうか、罪と思って、自分を責めないでください。
あなたはきっと、あらゆる道を模索して、私を助けようとしてくれたのだろうから。
そしてもう道がこれしかないことを、断腸の思いで悟ってくれたのだろうから。

覚悟はしていた。
この使命を身に帯びたときから、漠然といつも心にあった予感。
それが、はっきりと現実の元に現れてきたというだけのことだ。
そう、ただそれだけのこと。

戦地に赴くことに異論はなかった。
例えそれが、分の悪すぎる戦場だとしても。

守るためには、誰かが犠牲にならねばならなかった。


「それじゃあ、行ってきます。」


その言葉を聞いた誰もが行って、来ることは、ほぼないだろうと、分かっていた。
言った本人ですら。
それでも頷いたのは、彼女の無事を、心の底から願っていたから。
たとえその希望が、万に、億に1つの確率だとしても。

私は笑って、廊下へと続く扉を開けた。そして、振り返る。
優しいみんなの姿を目に焼き付けながら、私は精一杯の笑みを浮かべた。
どうか皆には、私の笑顔を覚えていて欲しかった。
笑って手を振って、私は極力自然にドアを閉めた。
ドアの向こうからダンッという壁か何かを打ちつける音と、ばさばさと書類の山が崩れた音がする。
私はそれに、ありがとうという思いを込めて、黙って頭を下げた。

戦地に赴くことに異論はなかった。
自分でも不思議なくらい、心に凪が立つことはなかった。

ただ、

たくさんの人を、そしてたった一人の人を悲しませなければならないことが

私は、それだけが苦しい―――





最期の て





小さいバッグに必要なものだけを手早く詰めて、私はゆっくりと部屋の中を見回した。
すっかり慣れ親しんだ光景に目を細め、名残を惜しむようにゆっくりと礼をした。
泣きたいときには泣かせてくれた。悔しいときには落ち着くまで見守ってくれた。
そんな全てを包み込んでくれる雰囲気が、好きだった。

情を振り切るように踵を返す。
そしてしっかりと扉を閉じた。





出発の刻限はもう間近に迫っていた。
私は、仕上げに最愛の人の元へ向かった。
本当は、会わずに行ったほうがいいのではないかと思った。
きっと、心に凪が立つであろうと、この気持ちが揺らぐだろうと、本能が訴えていた。
それでも、会いたい。
そう思う気持ちは、無意識に私の足を彼の元へと運んだ。私の意志も、ずいぶんと脆いものだと、自嘲気味の笑みを浮かべた。
会わないほうがいいのに、会いたいと、望んでしまった私は、どうしようもなく残酷で、我侭だ。


こん・・・こん


小さくノックをすると、扉の向こうから少し高めの声がした。聞き飽きることなんてなかった。大好きな、声。
あぁ、それだけで心に小さなさざ波が立つ。視界が、揺らぐ。
きつく目を閉じてその衝動をやり過ごして、私は努めて冷静に扉を開けた。

とたんに私を包む空気。
この部屋中に満ちた、彼と同じ私を包み込むような、どこまでも優しい気配。
あぁ、変わらない。いつも、どんなときも、ここの空気だけは、変わらない。

変わらないで欲しい。


「どうしたんですか、。」


ベッドに腰掛けて本を読んでいたらしい彼は、ゆっくりと本をおいてこちらへ歩いてきた。
その顔には、いつだって優しい微笑があって。私はいつもそれに癒されてきた。
その笑顔を、最後に私が消してしまうのは、ひどく悲しい。

どうか、この笑みを絶やさないで。どうしようもない我侭だと、知っているけれど。


彼の問いに緩く微笑んで何も返さない私に不思議そうな顔をした彼の視線が、私の持つ小さなバッグでとまった。
視線で問いかけてくる彼に、小さく首を傾けて、困ったような苦笑を浮かべた。泣き出したい思いとは、裏腹に。
そうして自分を創らなければ、すべてが崩れてしまいそうだった。


「任務に・・・いくことになって。」

「そう、ですか。」


心配そうな、気遣うような視線で、彼は私を覗き込んできた。
ついっと手が動いて、そっと私の頬に触れる。
じんわりと伝わる優しいぬくもりに、心の防波堤は一気に崩れ落ちそうになった。
その手にそっと手を添えて、私はゆっくりと目を閉じた。

心が凍りついたように冷え切っていたことに、やっと気づいた。
ずたずたに傷ついて堪え切れないくらいの痛みを抱えていたことに、ようやく気づいた。
気づきたくはなかったのに、このぬくもりは気づかせてしまう。
そしてそれを癒してくれるのも、またこの優しい手。

だから、離れたくないと思ってしまうのだ。


「いつ、帰れそうなんですか。」

「・・・さぁ・・・。」


どうだろう、と、私は言葉を濁した。
果たすことの出来ない約束は、彼を縛り付け、苦しめるだけだと分かっていた。
哀しいだけだと、分かっていた。
なのに


「帰ってきたら、一緒に町に行きませんか。」

「・・・そう、だね。」


気休めだと分かっているのに、傷つけるだけだと分かっているのに。
一時でも希望ある未来を夢見ることを、あなたは許してくれるでしょうか。
零れた眩しいほどの明るい笑顔を見たかったといったら、あなたは許してくれるでしょうか。

何も言わずにいくことを、あなたは許してくれるでしょうか。










刻限が、迫っていた。










私は、頬にある手を、添えていた手で握り締めると、勢いよく引いた。
わ。と驚いたような声を発して前につんのめった彼の頬に、私も同じように手を添える。

そして一瞬だけ、重ねたぬくもり。

思えばこんな形で親愛の情を贈ることは、なかったような気がする。
誰よりも大切な人なのに、あまりにもぬくもりを分け与えることはなかった。
それだけが、少しだけ悔やまれる。
もっと、知っておけばよかった。
もっと、伝えておけばよかった。

もっと、一緒にいたかった―――


・・・?」


顔を真っ赤にして口元を押さえた最愛の人に、今出来る最高の笑みを贈って、私は手にしたぬくもりを手放した。





いかなくてはならない。
大切な全てのものを、守るために。





「ありがとう、アレン。たくさんの日を。」


思いを、優しさを、ぬくもりを―――
たくさんたくさんもらったもの。それに見合うものを返せていたとは、とても思えないけれど。
ありがとう、たくさんのものをくれた人。

我侭な私を、どうか許してください。


私の言葉に何かを悟ったらしい彼の表情が、みるみるうちに変化していく。
私はそれを最後まで見届けることなく、身を翻して慣れ親しんだ部屋を飛び出した。薄暗く冷え切った廊下を、全力で駆け抜ける。
後ろから私を呼ぶ声がした。
身を切るようなその声音に、思わず振り返りそうになった自分を、私は全力で叱咤し、振り切るようにスピードを上げた。
今振り返って、私のために悲しんでくれるあなたの顔を、見ることなんて出来ない。
見てしまえば、きっともう、走り出すことなんて出来なくなる。
もう、その手を振り切ることなんて、出来なくなる。

最後まで我侭で弱い私を、どうか許してください。


地下水路で待機していた船に飛び乗ると、私は無我夢中で出してくれるように頼んだ。
追いかけてくる声に応えようとしてしまう自分を、必死で押さえつけた。
さっきまでぬくもりがあった頬に、いくつもの涙が伝う。
自分を引きとめようとする彼の声が、いつまでも耳に残って離れない。
心の中で、何度も何度も、ごめんなさいと叫んだ。





最後に感じたものは、どうしようもないあなたへの想いと、その優しいぬくもりでした―――










***