夢を見ていた―――
エクソシストになるまでの、質素ながら暖かかった日々。
教団に初めて足を踏み入れたときの覚悟。
そして
あなたに初めて出会って、知った想い―――
幸せだった。幸せすぎて、現実の厳しさを忘れるくらいに。身に帯びた使命を忘れるくらいに。
思い出ばかりが暖かくて、溶けていく雪のように、涙があふれて止まらない。
ごめんなさい、ありがとう。
何度も何度も繰り返した言葉。
それを小さく唱えて、私はすっと前を向いた。
眼前には、ほとんど廃墟と化した町。そしてその向こうに広がるのは林。
その林から、大きな爆発音がした。
そこに向かって走り出す。
もう振り返ることはしなかった。
もう一度振り返るときは帰る時だと、決めていた。
帰れないかもしれない。でも、帰れるかもしれない。
言いたかった言葉、言えなかった言葉。
もう一度、あなたに会いたい―――
最期の ことば
かさ、かさ、と。草の上を歩く静かな足音があった。
それはあまりにも静かで、あまりにも淡々としていた。
その音を聞きとめて、男―――ティキ・ミック卿は振り向いた。
そこに現れたのは、今自分の足元に倒れている者と同じローズクロスを胸につけた少女。
その姿に、目を丸くする。
静かな表情を微塵も崩さずこちらをひたと見据える彼女に、ティキはゆっくりと向き直った。
そしてゆっくりと、笑みを浮かべる。
「初めまして。可愛いエクソシストのお嬢さん?」
「・・・初めまして。かっこいいノアのお兄さん。」
冗談めかしてかけた言葉に、その少女は笑みを浮かべて応えた。
口の端を非対称に吊り上げた、皮肉げな、挑戦的な微笑み。それは決して友好的なものではなく。
しかしその粋な受け答えに、ティキは満足げに笑みを深めた。
「わざわざやられに来たのかな?」
「それは違うわね。」
ティキの言葉に、その少女―――は小さくくすりと笑った。
「わざわざ、やりに来てあげたのよ。」
大切なもの全てを、振り切ってね・・・
心の中で呟いた言葉は表に出さぬまま、は静かに戦闘体勢に入った。
***
「どうして行かせたんですか!」
ダンッという音と共に、机の上にあった書類がパッと宙を舞った。
やりきれないような、燃え上がる視線を一身に受けて、コムイはすっと視線を落とした。
机を打った彼の腕は、小刻みに震えている。それが寒さゆえでないことは明らかだった。
「・・・我々の任務は、イノセンスを保護することだ。」
「分かってます・・・。」
「イノセンスを守るためには、誰かが行かなきゃならない。向こうに壊される前に、保護しなければならないんだ。」
「分かってます!でもどうして・・・どうしてなんですか・・・っ!」
ずるずると、その場にくずおれる彼を見て、涙を流しながら静かに見守っていたリナリーが駆け寄った。
肩を支えるようにして、気遣うように覗き込む。
アレンは、唇を噛み締め、必死に何かを堪えていた。
救いを求めるように兄を見ると、その静かな表情の中にも苦痛が垣間見えて。
両方とも苦しんでる。本人たちだって、分かっているのだ。でも、感情だけはどうしようもない。
やりきれない思いに、また涙が滲むのが止められなかった。
帰ってきて、と、リナリーは心の底から願った。
、どうか帰ってきて―――と。
***
出会った若いノアの男は、困ったような表情で足元を見つめた。
その視線の先には、仲間だったもの。その姿を見、は唇を噛み締めた。
あの状態ではもう、生きてはいまい。
「俺の今回の目的は、お嬢さんじゃないんだけどなぁ・・・。」
困った表情はそのまま、こちらに同意を求めるように視線をよこすと、小さく小首をかしげた。
「俺の任務は、もうほぼ完了しちゃったんだけど。」
「何ですって・・・?」
そう言って彼が取り出したものは、小さな結晶。不思議と惹きつけられるそれは、間違いなくイノセンス。
目を見開く私の目の前で、彼はそれを自分の手のひらに握りこんだ。
ぐっと、力を込める。
「・・・!やめっ・・・!」
咄嗟に止めようと一歩踏み出したが、遅かった。
その瞬間、バチ!という大きな音と共に、イノセンスが砂のようにサラサラと消えた。
それを、呆然としながら見つめる。
私が守るべきものが、消えた。
「任務完了。」
パンパンと満足そうに手をはたいて、彼はこちらの反応を面白がるような笑みでこちらを見た。
それを、私は悔しいのを押し隠そうともせず、キッと見据える。
沢山の犠牲が出たのだ。あのイノセンスのために。
大切なものを犠牲にしたのだ。あのイノセンスを守るために。
悔しくないわけが、なかった。
「さて、これで俺のここでやることは終わったんだけど・・・。」
そう言いながら、わざとらしくちらりとこちらを見た。
なおも睨みつける私を満足そうな目で見て、小さく息をついた。
そのまま、にこりと笑う。
「ボーナスゲームってのも面白そうだ。」
そういいながら、ざっとこちらに一歩踏み出した。
ゆっくりとこちらに歩きながら、自然に手袋をはずす。
紳士的な笑みが、黒く歪んだ。
「さぁ、お嬢さんのイノセンスはどこかな?」
***
「帰ってくるよ・・・。」
ぽつりと呟かれた言葉に、僕は顔を上げた。
視線を向けると、そこには泣きそうになりながら呟くリナリーの姿があった。
「帰ってくるよ・・・ならきっと、帰ってくる。」
言い聞かせるように呟く言葉は、少し震えていたけれど。
「だって・・・は強いもの。今まで任務に失敗したことないもの。大丈夫。絶対無事に帰ってくる・・・。」
「リナリー・・・。」
帰ってくる―――
その強い声音と視線に元気付けられるように、アレンはゆっくりと立ち上がった。
そうだ。まだ、がもう戻ってこないなんて決まったわけじゃない。
帰ってくる。そう自分が信じなくて、どうする。
でも、
言いようのない胸騒ぎがするのは、抑え切れなかった。
「・・・!」
アレンは祈るように目を閉じた。
じりじりと胸をせりあがってくる不安を押し込めて、ただ愛しい人の無事を願った。
***
すっと差し出された手を、すんでのところで身をひねって避ける。
そのまま大きく跳び退って、距離をとった。
息が乱れている。疲労が溜まっていることを、認めないわけにはいかなかった。
それなのに、あの男はまったく息を乱していない。
まさかここまで、差があるとは思っていなかった。
しかし、考えてみれば当たり前のことだろう。
何人も、犠牲になっているのだから。この男のせいで。
負けるわけには行かない。失った仲間のために。
帰りたい。愛しいあの人の下へ。
そして謝るんだ。あんなこと言って、ごめんなさいって。
優しい彼を傷つけてしまったことを、私はまだ謝っていない。
開けた距離を、男が一気に詰めてきた。
繰り出される手を、必死になって避ける。
どんな攻撃も、この不思議な手の前では無力だった。
自分の反射神経を頼りに、必死に避ける。が、一瞬だけ、バランスが崩れた。
ズッと、男の手が胸元に埋まる。
痛みはなかった。が、言いようもない感覚に背筋が凍りついて、身体の自由を奪った。
目の前には、悪魔のような顔をした男。その表情は、笑み。
「お嬢さんの割にはよく戦ったと思うよ。でも・・・
―――チェックメイトだ。」
次の瞬間、私の身体に、経験したこともない衝撃が走った。
***
がくんと、くずおれるように目の前のアレン君が膝をついた。
顔面蒼白だった彼の顔は、青を通り越して白くなってしまっていた。
「アレン君・・・?」
呆然と目を見開いたまま一点を見つめて動かないアレン君が心配になって、私は恐る恐る声をかけた。
一緒にいた兄さんも、驚いたようにアレン君を見つめている。
「・・・・・・?」
小さく呟かれた言葉に、私と兄さんは息を呑んだ。
いやな予感が、胸をよぎる。
予想できる最悪の未来が、現実となってしまったような。
「ま・・・さか・・・。」
小さく呟いた声はかすれてしまっていた。喉の奥に何かが詰まったようで、息もしにくい。
どくどくと、耳元で聞こえる拍動が煩かった。
嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ。が、あんなに強かったが、そんな・・・!
「・・・!」
***
「勇敢なお嬢さん。君のその勇気と強さに敬意を表して、ほんの少しだけ時間をあげよう。ゆっくりとお別れするんだね。この世の全てに・・・。」
そういい残してあの男が去ったのはいつだったか。
息をするたびに胸を貫く痛さと、どうしようもないくらいの寒さの中、はかろうじて意識を保っていた。
だんだんと目がかすんできた。息をするのすらおっくうだ。
もう、会えない。
ごめんね、もう、会えないよ・・・。
私はさっきから、ひたすらそれだけを繰り返していた。
目に映る青い空には、はっきりと彼の顔が思い描ける。最後に見た、嬉しそうな笑顔。
そしてほんのりと私の心を暖めてくれるのは、あの最後の手のぬくもり。
自ら、手放してしまったもの。
ごめんなさい。もう、会えそうもない。もう、ダメかもしれない。
もう会わないと決めてきたはずなのに、こんなにも帰ることを望んでいた。
また会えると、淡い期待を寄せていた。
もう、叶えられない。もう、帰れそうも・・・ない。
そのとき、ぱたぱたと小さなはばたきが聞こえた。
目線だけで見ると、そこには自分のゴーレムの姿。
そういえば、これには通信機能のほかに、音声録音機能もあったっけ。
兄のように慕っていたあの人が、こっそりと改造してくれた、私だけのゴーレム。
一度も使ったことがなかったけれど、もしかしたらこの機能は、このために、この瞬間のためにあったのかもしれない。
「伝えて・・・彼に。アレンに・・・伝えて・・・。」
喉の奥にせり上がって来た胃液とも血液とも知れないものをなんとかやり過ごして、私は言葉を振り絞った。
伝えたかった。ごめんなさいと。伝えたい言葉が、たくさんあった。
あぁ、今になってこんなに思いつくなんて、なんて悔しいんだろう。全てを言う体力なんて、時間なんて、残ってないよ。
厳選して、厳選して、本当に言いたい珠玉の言葉だけを。
どうかもって。言い終わるまで、どうか。
まだ、ここを離れたくなんて、ない。彼のいない世界なんて。
「アレン・・・ごめんね、アレン・・・。ごめん。ごめんなさい・・・。」
ありがとう。楽しかった。いつも優しくしてくれて、嬉しかった。
沢山沢山言いたいことはあるけれど、もう時間が許してくれそうもない。悔しいな・・・本当は、直接言いたかった。
「・・・愛してる・・・。」
愛してたなんて、過去形になんてしたくなかった。
私は、この世からいなくなっても、また来世が来ようとも、ずっとあなたを愛してる。
愛していられる。命を懸けた、一世一代の恋だから。
だから、どうか。
「生きて・・・。」
私の分まで、生きて―――
ぱたぱたと、小さな羽ばたき音を残して、彼女の小さなゴーレムは、最後の仕事へと向かった。
風が後押しするように、守るように、その小さな姿を押し上げ、包み込む。
そしてその姿は空に紛れ、消えていった―――
***
|