いつものように、家を出た。
いつものように、図書館へ行く。
他人からみれば、いつもの光景。
でも、私にとって今日は、
“いつも”の終わる日―――
***
いつもの場所へと続く道を、かつん、かつん、といつもよりゆっくり歩いた。
今日はまだいる。大丈夫。
今日は・・・?
じゃあ、明日は・・・?
そう問いかけてくる自分を押し殺して、いつもを振舞う。
いつもの私は、こんな風に苦しそうに歩いてはいないのだから。
いつもの角を曲がった。
広がる視界に、金と赤のいつもの姿。
確認したとたん、無意識にほっと息をつく。
いつの間にやら力を入れていた肩から、力が抜ける。
ふと彼が顔を上げた。
振り返る。
「・・・よぉ。」
「・・・おはよう。」
少し微笑んで、朝の挨拶。最後の。
つきんと胸が痛んだ。
一度痛み出した心は、止まることを知らない。
今日はまだ始まったばかりだというのに、もう心が悲鳴を上げてる。
こんなことにはもう耐えられないと。もう逃げたいと叫ぶ。
それを振り払うように、私は本を少し乱暴に引っ張り出した。
***
カチカチとなる時計の音が今日も聴こえる。
刻一刻と無情にも時間が過ぎ去っていくのを、単調な音で突きつけてくる。
ほらほら、時間がないぞ。とでも言っているかのようだ。
無慈悲な音に、苛立ちを覚えた。
それと同時に、焦りも覚える。
何かをしなければならない。最後を迎える前に、何か。
そうは思うのに、実際何をしていいか分からない。
いまさら、何ができると言うのだろう。
ちらりと、いつもの場所にいる彼を見た。
いつもと同じように、真剣な表情で本を読みあさっている。
こんな姿を見られるのも、今日が最後。
そう思っただけで、また心が悲鳴を上げた。
目をきつく瞑って、両手を思いっきり握り締めて、こみ上げる感情を押し込める。
少しでも長く彼のことを見ておきたいのに、今は苦しくてまともに見れない。
みたいのに。
今だけしか、今日だけしか、見られないのに。
気ばかりが急いて、動けない。
いっそ、何も感じなくなってしまえば、楽になれるだろうか。ふと、私はそう思った。
そうすれば苦しむこともないし、胸に走る痛みに顔を歪めることもない。
でも、そうじゃない。私が望むのは、そんなことじゃないんだと、痛む心が叫ぶ。
大切に過ごしたいのだ。今日という一日を。
別れが避けられない未来なら、せめて今日一日は。
失われるいつもを惜しんで、受け入れて、消化して。
笑って、送り出す準備をしたいのだ。
でも、そのために何をすればいいのか。私には、皆目見当もつかなかった。
***
お昼になって、一度家に帰ってご飯を食べて。
急ぎ足でまた図書館へ。
そしてまた各々本を読んで。
そしてやがて、閉館の曲が静かに流れ出す。
いつものように。いつものように。
静かに、夕暮れと共に閉幕の気配が訪れる。
結局何も、出来ないままで。
夕焼けの色に彩られた世界。
閉館を告げる静かな音楽が、人を出口へとせかす。
それでも私は、ずっと彼を見ていた。
それはいつもではなかったけれど、今日ぐらいは許されるだろう。
閉館の曲に気づいているのかいないのか、ぴくりとも動かず本を読んでいる。
それを、少し微笑んで、彼の髪に反射する夕焼けの眩しさに目を細めて、静かに見つめる。
もう少し、もう少しだけ、そのままでいて。
せめて、この光景を心に焼き付けるまでは―――
***
幻想的な風景は、いつもの音と共に消えた。
がしゃがしゃと、遠くから弟さんの足音が聞こえる。
それはだんだん近づいてきて・・・
「・・・っ!」
とたん、私はものすごい不安と恐怖に襲われた。
息が詰まって、無意識に胸を押さえる。
心の悲鳴が、聞こえる。
私が見てみぬ振りをして押し殺していた感情が、このとき一気に爆発した。
嫌だ、来ないで。
あなたが来てしまうと、彼は行ってしまう。
終わってしまう。
まだ・・・まだ終わって欲しくないのに。
どうか来ないで。私から彼を取らないで。
お願い・・・終わらせないで・・・まだ、私は彼と一緒にいたい!
ともすれば叫んでしまいそうになるのを必死でこらえて、ぎゅっと眼をつぶる。
寒くもないのに、体が震えた。
あぁ、そうか。私は、そう思っていたんだ。
冷静な頭の隅っこが、そう呟いた。
口ではどんなきれいごとを言っても、かっこつけて強がっても、
結局、なにも納得なんて、出来てなかった。
そんな私の願いもむなしく、弟さんはいつもどおりに来てしまった。
「兄さん、閉館だよ。そろそろ行こう。」
「ん?・・・もうそんな時間か・・・。んじゃ、行くか。」
“行く”という言葉にひどく反応してしまう。
とたんに恐怖と寂しさに襲われる。
“行くって・・・どこに?”
立ち上がって本を閉まって。
ふいっと私のほうを向く。
いつもとは違う、私の不安そうな顔を見て、苦笑して。
「じゃ・・な。」
小さく、そうポツリと呟くと、彼は身を翻していってしまった。
次第に小さくなる独特の足音を聞きながら、私は立ち尽くしたまま動けなかった。
もう会えないのだから、期待するほうが間違っていると思う。でも
「また明日。」という言葉を、気休めでも言って欲しかったのかもしれない。
終わってしまった。
私の“いつも”が。
大切な、かけがえのない、彼のいる“いつも”が。
もう、会えない。
もう、見れない。
もう、聞けない。
もう・・・二度と?
いてもたってもいられなくなって、私は彼らを追いかけた。
ちょうど2人は図書館の扉を出て行くところだった。
今ならまだ、呼び止められる。
とっさに、「待って」の一言とともに手を差し伸べようとした。
でも、呼び止めて何を言うのだろう。
何を言ってしまうだろう。
彼を困らせる以外に、今の私は何が言えるだろう。
迷惑を、かけてしまう。それだけは・・・嫌だ。
そんな一瞬の迷いが、私の体を縛り付けた。
言い出しかけた言葉を飲み込み、差し出された手は力もなく下ろされた。
私はその場に立ち尽くして、彼らが去っていくのを見守った。
次第に小さくなっていく2人の後姿を眺め、私は必死に息をしていた。
胸が何かで詰まったように、苦しい。息が、出来ない。
こみ上げてくる感情を無理やり押し込んで、気づかない振りをして。
にじんできた涙を目をきつく瞑って飲み込んで、上を向いて。
大きく吸い込んだ息を、細く、長く、震えながら吐き出した。
2人の姿は小さくなり、やがて雑踏の中に紛れて消えた。
あぁ、終わってしまった。
頭の中で、ポツリと私は呟いた。
あまりにもあっけない。あまりにもいつもどおりの。
そして、私の心はまだぐちゃぐちゃなまま。
閉幕の緞帳は、無情にも下りてしまった。
どうしようもないほどの空虚感と胸の痛みを、私に残して―――
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***
きれいに終わる恋は、きっとないのだろうと思います。
好きな分だけ、心は傷つき、かき乱されて終わるのだと思います。
でも、それじゃ、きっと苦しいだけなので。
少しでも、救済を。